ほとんど手作りで丁寧に製造し販売しています。「源平餅」などの名物、銘菓を始め季節の和菓子、 抹茶の御茶請け用の上生菓子、慶弔仏事用の餅、饅頭、赤飯等も少量からでの御注文もお受けしてます。
1970年(46年間)頃から変わっていないサーバーで作るソフトクリームも結構、好評ですよ。

創業者の思い出

創業は、明治29年(1897年)で創業者は、浜川数太郎、2代目 金三郎、3代目 数明、4代目 博司(現)です。
初代の数太郎さんは、波乱万丈の人だったようです。元々は、志度の住人で、11歳の時(明治23年 ごろ)に、ころり(コレラ?)が流行し、父親や兄弟の何人かが同日に亡くなって、母親もその前年に他界していた為数人の幼い姉弟達は離散し、他家に養子に出されてしまい、残った長男の数太郎さんもお菓子屋の住み込みの修業という形でここ屋島に来た事が、屋島での初めであったようです。17歳の時(明治29年)独立して(松栄堂)の屋号で創業したようです。

明治27年の日清戦争、明治37年の日露戦争に挟まれた不安定な時代だったみたいですが、創業してすぐに屋島寺の御住職の依頼で社務所付近にあったお休み処のような場所でお遍路さんなどの参拝者に御茶うけとして供したいという事で、当店の中心商品だった屋島名物「源氏かち餅」(源平餅)の原型になった紅白の餡入り求肥餅を納品したと聞いています。
その後一旦店を閉め(日露戦争の影響?)外国航路の船乗りになったり、軍港のあった呉で店を開きイワオコシなどの土産物を製造販売したり、その後弟子に店を譲り屋島に帰って、成長した2代目の祖父金三郎と2人で菓子屋を再開しました。
その後大正11年(1922年)に、昭和天皇が未だ皇太子であられた時、高松に見えられたおり屋島にもお立ち寄りになった際に、名物として「源氏かち餅」(源平餅)を献上した事もあったそうです。

年齢が行ってからは、朝、浦生(うろ)の浜から飛び込み、泳ぎ渡って女木島で海の家を営んでタ方に泳ぎ帰ってきたりとか、とかくいろいろな事をやった人であったようです。

仕事の喜び

屋島名物の「源氏かち餅」も、初代が世に出し、2代目が現在の商品の原型を考案し、3代目の父が、それを完成(?)させ、4代目の私が引き継いでいます。一つの商品を作り上げるのも時間と手間が、掛るものだとつくづく思います。それと当店のソフトクリームの事を、うどん県CMの「ウドン・オブ・ミュー ジック」や映画の「猫と電車」で有名な、現役銀行ガールで映画監督の香西志帆さんが、ネット上で写真付きでツブヤイテ下さったおかげで、ソフトクリームのお客様が増え、先日は、インスタグラムを見たという御家族が、愛媛県からお出でて下さったりして本当に驚きました。ありがたい事です。

この紹介文を作成したのは、2016年の7月あたりでしたか…。今回、写真等の掲載に当たって、もう一人の女神さまとたくさんのエンジェルさん達に感謝の気持ちをお伝えしたいと思います。その方は、マユリーナさん。大変有名なブロガーさんです。2016年のお盆過ぎに店の方へお訪ね下さり御自分のSNSにのせて頂いた翌日からその記事を見て一気に大勢のお客様達が、おいで下さるようになりました。そしておいで頂いたお客様それぞれがまた御自分のSNS等で紹介して頂き、本当に感謝の気持ちでいっぱいです。信じられない事に雑誌やラジオやTVにまで取り上げて頂き、お陰様で3年経った現在もますます大勢のお客様達がご来店下さり、喜んで頂いております。志帆さん、マユリーナさん、喰蔵さん他皆さま本当にありがとうございます。

以前に買って下さったお客様がお見えになり、「本当においしかった」と言ってにっこり笑ってリピートして頂いた時は、本当にこの仕事をしていてよかったと思います。直接お客様の声で感動を伝えて下さった時は、いつも幸福感に浸っています。

このページをご覧の皆さまへメッセージ

50歳を大きく過ぎて、いろいろと厳しくなってきていますが、気力体力が続く間、出来るだけ地道にこの仕事を続けていこうと思っていますので今後ともよろしくお願いいたします。それと自分で納得のいく「一生一品」を作り出せたらと思っています。

浜川三寿堂 代表 浜川博司

浜川三寿堂(はまかわさんじゅどう)
住所/〒761-0113 香川県高松市屋島西町1342-5 TEL・FAX/087-841-9468
業務内容/和菓子・洋菓子製造販売
営業時間/9:30~18:00 定休日/水曜日